日本の調査捕鯨に抗議する米環境保護団体シー・シェパードの船2隻が、9日南極海で調査捕鯨を行っている日本鯨類研究所の船団の調査母船、日新丸に接近、化学物質の液体入りビンを投げるなどし、乗組員二人が軽傷を負った。福井新聞より
このような記事を見ているといつも思うのだが、目的が正しければ手段を選ばず、って。
この思想っていうか、確信はどこか宗教的な臭いがする。
昔、キリスト教を広めたヨーロッパ人は良いことをしていると確信していた。
信じ切っていた。
何故って、神の言葉を未開の人に伝えていくことは神の言葉を知っている者にとっては義務と思っていたから。
その結果どうなっただろうか?
世界中にあった、文化や国家、民族までも滅ぼしてしまったのだ。
神の言葉を伝える事だけに集中して、受け入れない民を異端扱いにして、抹殺しても何の呵責も持たないようになってしまっていた。
これが、キリスト教の歴史なのだと思うのだが、今もそのことに気づいているキリスト教徒は何人いるのだろうか?
歴史に学ぶ
このことの意味は、今もって理解されていないように見受けられるのは、オラだけだろうか?
アメリカのイラク攻撃然り、今後もアメリカは攻撃に対して謝罪はしないだろう。
それに便乗したイギリスも然り。
イギリスの中国に対するアヘンの合法的輸出、これも謝罪はしていなかったかのように思う。
中国のチベットに対する侵略もまた然りである。
インド人が牛を食べる国に対して、神の使いである牛を食べることはけしからんと言ったことがあるだろうか。
一夫一婦制の国が一夫多妻制の国をけしからんと言ったことがあるだろうか。
イスラム教徒の国が豚の肉を食べるのはけしからんと言った事があるだろうか。
それぞれの国にはそれぞれの食文化があるのだ。
オラ自身は、韓国の犬食文化は気味が悪いとは思うが、それで韓国人の程度が低いとは思わないし、ましてやそのことを持って民族に対する攻撃の材料にしようなんては全く思わない。
カタツムリを食べるのも同じ。
鯨には知能が他の動物より高いから、食べてはいけないなんて・・・・・、じゃ、知能が低ければいいのかな?(これは逆に差別だと思う。)
なんて思ってしまう。
全くの独りよがり。
目的のためには手段を選ばず
薬品を撒いた人たちは、自分たちは正しいことをしていると確信してやったのだろう。
その目的を達成するためには、どんなことも許されると思っているのだろう。
たとえそれで人が死んだとしても。
宗教の恐ろしさはそこにあると思う。
昔の赤軍派や中核派を見ているような気がします。
オラが思うに、目的は正しかったが手段が悪かった。
でも、彼らは目的を達成するためには、仕方がないと考えていた。
小を殺して大を生かす。
その結果、誰も見向きもしなくなった。
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